- Part ① -
ほんのりそんな感じがあるんでしょうか。“おまえらー!”みたいなことは言いませんけどね。でも、バンドのドラマーには姐さんって言われます(笑)。
あります、あります。私は子供の頃から、泣き虫な弟を守ってあげるお姉ちゃん。いじめられている弟の前に立ちはだかった記憶があるんですけど、90歳過ぎてるうちのじいちゃんが「杏里ちゃんはそういう子だった」といまだに言います(笑)。
そうですね。11歳まで長野で暮らしていたんですが、その頃は本当にのびのびとしていたと思います。好き嫌いのはっきりした子でした。学級委員で、ビシッとものを言えて、他人に対してもどんどん突っ込んでいけるような。だから長野時代の私を知っている人は、明るくて元気な印象しかないんじゃないかな。そのあと東京に転校して、ちょっとずつ変わっていったんですよね。
違いましたね。まず方言をいじられたりするんです。だから周りに合わせなきゃいけないんだろうなって。生きるためには、本来の自分を抑えなきゃいけないなって。でもそれが後々、曲をつくりはじめることに繋がっていくので、転校が転機になったことも間違いないんですけど。
違ったと思います。家では元気だけど、外では音楽室に引きこもってお弁当を食べているような子でしたから。
井上陽水さんの、とくに歌詞を聴くのが好きでしたね。父のCD棚だったり、見ているテレビ番組だったりで陽水さんを知って、いつの間にか大好きになって。リアルタイムで流行っていた音楽も聴いていたんですよ、友達の付き合いで。高校のときは全然わからないのにR&Bとかヒップホップとかも聴きました。で、家に帰って陽水さんを聴いて落ち着くという(笑)。
最初は歌を歌いたかったんです。歌うのが好きだったし、それなりにうまいんじゃないかと思っていたし。進路を決める時期に、父が「会社員になるよりは、こういうほうが向いているんじゃない?」って、タレントスクールの生徒募集の切り抜きを持ってきたんです。私の父はバンドマンで、その姿をずっと見てきたので、私もやってみようかなって思いました。そのスクールは歌手だけではなく、芸人だったり、アナウンサーだったり、俳優だったりといろんなジャンルを目指す人の養成所のようなところだったんですけど、なんとなく自分の歌を歌わないとこれからさき生きていけないんなじゃいかなと漠然と思って、それで曲をつくりはじめたんです。
面白かったですよ。いろいろやりました。演技もやったけど、全然できなかったし、ましてや漫才なんて(笑)。でも、興味がなかったからできなかったんでしょうね。人前で何かをすることには抵抗はなかったです。今まで抑えていたぶんを発揮したかったのかな。自分で自分を抑えていたくせに、それがストレスになっていたのかもしれません。
はい、やってなかったと思います。ヤンキーになっていたかもしれない……というのもないと思うけど(笑)。でも、音楽はやっていなかっただろうな。人に対して自分のままでぶつかって行けないストレスとか、自分を伝えられなくなっちゃったなっていうくすぶった気持ちが、ぶわっと曲を書く方向にエネルギーを向かわせたんだと思います。